2007年3月31日をもって惜しまれつつ廃線となった「くりはら田園鉄道」の若柳車庫および旧若柳駅舎を「くりはら田園鉄道鉄道公園」として再整備し、かつての車両達とともに保存されています。
1921年(大正10年)に軽便鉄道・栗原軌道として石越‐沢辺駅間でスタートしたくりはら田園鉄道線は、当初から栗原市(旧鶯沢町)の細倉鉱山からの鉱石輸送を目的とした鉄道路線でしたが、開業当時は岩ケ崎(栗駒)駅までとなっており鉱山の経営状況が芳しくない時期に免許(岩ケ崎‐細倉間)が失効してしまいました。
しかし、1934年(昭和9年)には細倉鉱山が三菱鉱業に買収された事がきっかけで鉱山の拡張・増産が行われ、1940年(昭和15年)に増資分の株式を三菱鉱業が引き受けた事で細倉軌道の筆頭株主となり、細倉鉱山までの延伸も1942年(昭和17年)までには完了し、ようやく全通を迎えました。
戦後の1950年(昭和25年)には直流750Vによる電化が行われ、さらに1955年(昭和30年)には軌間が国鉄線(東北本線)と同じ1067mmに改軌され、社名も「栗原電鉄」となりました。
1987年(昭和62年)に細倉鉱山が閉山したことに伴い貨物輸送が途絶えた事で細倉ー細倉鉱山間が休止となり、翌1988年(昭和63年)には同区間は廃線となったものの、1990年(平成2年)には坑道跡を再利用したテーマパーク「細倉マインパーク」が開業、最寄り駅の細倉マインパーク駅が開業したことを受け元の細倉駅は廃止となりました。
1993年(平成5年)に親会社の三菱マテリアル(旧三菱鉱業)が周辺自治体に株式を譲渡したことで第三セクター鉄道となった後、1995年(平成7年)に電化設備が廃止されたことを受け社名も「くりはら田園鉄道」に改称されました。
富士重工製の軽快気動車・KD95型気動車3両と、名古屋鉄道より譲渡された同じく富士重工製のKD10型2両の5両体制で運行されていたものの、細倉鉱山閉山後の沿線地域は人口減少に歯止めが掛からず、2007年(平成19年)3月31日の運行最終日をもって石越ー細倉マインパーク間の全線が廃止となりました。
廃止の翌年、2008年(平成20年)の岩手・宮城内陸地震が発生した際には残存する施設への被害は軽微であったものの、「くりでん」跡地活用のための会議に出席するために栗原市を訪れていた鉄道博物館学芸員・交通史研究家の岸 由一郎氏が、地震に伴い発生した土石流が宿泊していた旅館を襲い、帰らぬ人となってしまいました。
2017年(平成29年)に旧若柳駅と車庫が「くりはら田園鉄道公園」および「くりでんミュージアム」として整備され、単なる展示施設に留まらない体験型の鉄道テーマパークとして生まれ変わりました。
▲電化時に新製され、軽便鉄道時代の軌間762mmから改軌されたED20型3号機。
▲2007年3月31日の運行最終日、横断幕やヘッドマークで装飾されたKD951。非電化であったものの、全線廃止まで架線柱や送電線などが一部残存する区間がありました。
・・・くりでんミュージアムの公式Webサイト。詳細なイベント等についてはこちらをご参照願います。
▲2006年4月16日に運行された団体臨時列車で運用に入ったKD11+KD12のペア。
1995年にくりはら田園鉄道へやってきた元名古屋鉄道キハ10形のキハ15とキハ16が現在のKD10形・KD11とKD12である。富士重工(現・SUBARU)によって開発された「LE-CarIIシリーズ」と呼ばれる軽快気動車(レールバス)であり、バス用のボディやエンジンに乗降扉といった部品を採用する一方で液体変速機は一般の鉄道車両用が用いられており、コストダウンを図りながら地方ローカル線で柔軟な運用に耐えられるよう配慮がなされているのが特徴です。
台車は一見貨車のような2軸車にみえるものの、実は空気ばねを用いた「1軸ボギー台車」を採用して乗り心地の改善がなされているものの、通常の2軸ボギー台車を履くKD95形と比べるとやはり乗り心地は劣ってしまう。
2006年に運行された団体臨時列車で運用に入ったKD10形に乗った際、これまで味わったことのないスリリングな挙動におっかなびっくりしながら乗っていた記憶が今でも印象深く残っています。現在はKD11が動態保存、KD12はくりでんミュージアムの車庫内で静態保存されています。
▲若柳駅に進入するKD951。現在も動態保存されている2両のうちの1両である。
1995年に非電化となったくりはら田園鉄道で運用するために富士重工で製造された「LE-DCシリーズ」と呼ばれる軽快気動車であり、「LE-CarIIシリーズ」の後継に当たり、様々な第三セクター鉄道や地方ローカル私鉄で採用されている。
オリジナル要素としてよく挙げられるのがカンテラ風のヘッドライトで、言わずもがな細倉鉱山をイメージしてデザインされたもの。もちろんカンテラ「風」なので外すことは出来ないのはご愛嬌。カンテラ内部のライトはKD10型にも用いられているシールドビーム灯です。
また内装の木材も宮城県内産のものがあしらわれていたり、1両ごとに異なるデザインの側面エンブレムが掲出されていて、随所にこだわりが感じられます。
KD951とKD953は旧若柳駅構内にて動態保存されており、KD952はくりでんミュージアムの車庫内で静態保存されています。
▲2006年4月 若柳駅構内にて撮影。国鉄80系電車に端を発する湘南スタイルの電車。
1955年(昭和30年)に製造された電車で、3両が製造され1995年の電化廃止まで40年間活躍した細倉電鉄時代の車両。車体はナニワ工機(現アルナ車両)製で、電装品は三菱電機、台車は住友金属(現日本製鉄)が担当しており、三社共同の銘板が車内に存在します。
デビュー当初はグリーン/クリームのツートンカラーでしたが、モータリゼーションが進んで踏切での事故を防ぐために現在の金太郎スタイルに改められたとのこと。
▲2007年3月31日 若柳駅構内にて撮影。元西武のM181を連結した状態で留置されていた。
1960年(昭和35年)に既存の制御付随車を改造し、M15形電車と同等の設備を持つ。C151とC152の2両が存在したが、どちらも解体され現存しません。
一見するとM15形の付随車バージョンと思いきや、反対側(細倉マインパーク方面)は運転台が無く、切妻の平べったい顔が付いている。先頭に立つことがないため、こちら側はテールライトしかついておらずその異様さに拍車を掛けていたことは間違いありません。
▲2007年3月 細倉マインパーク駅前にて撮影。現在は屋根が設けられている。
1950年(昭和25年)に3両が製造された電気機関車で、製造当初は軌間762mmであったが1955年の改軌に合わせて台車枠が枕木方向に拡大され、台枠や凸型のボディより台車枠のほうが幅が広くなってしまったために、正面から見るとはみ出しているように見えるのがチャームポイント。
細倉マインパーク前駅から旧細倉鉱山駅まで伸びていた貨物線の廃線跡より1段高い場所にある分岐器上に保存されているが、細倉電鉄時代にはここに線路は無かったので、架線含めて余ったポイントを枕木ごと移設したものと考えられます。
▲2007年3月31日 若柳駅構内にて撮影。くりでんロゴがあり廃線まで現役であった。
1965年(昭和40年)に協三工業で製造された、一般に「10t貨車移動機」と呼ばれる車両でかつては石越駅構内で国鉄線との貨車受け渡しに使用されていました。
同型の車両は細倉鉱山駅構内でも稼働していましたが、こちらは完全な私有車両であったため細倉鉱山の閉鎖と共に廃車され現存しません。
1987年に貨物の取り扱いが無くなった後は専ら若柳駅構内の車両を移動させるスイッチャーとして活躍しており、廃線後も保存車両の構内移動などに積極的に活用されています。
旅客列車の終点駅として機能していた細倉駅は、倉鉱山駅まで伸びる廃線を一部復活させる形で200mほど延伸され「細倉マインパーク駅」として移転開業することとなり、元の細倉駅は廃止されてしまったものの駅舎はくりはら田園鉄道の廃止まで現存していました。
ホームが駅舎前の1面1線であるものの、勾配を避けて駅舎の西側に荷物用のホームも存在しており、細倉鉱山と鉱山に関わる人々の生活を支えていた頃の賑わいをうかがい知る事ができました。
ホームや駅舎は解体されてしまいましたが、写真奥の踏切付近に駅の跡を示す石碑が設置されました。
半円形の特徴的な屋根を持つ石越駅舎は栗原電鉄時代からそのままくりはら田園鉄道でも利用されていたが、廃線後に解体され現在は駐車場となっています。
唯一電話ボックスがほぼ同じ場所で残存しているものの、こちらはNTTが設置するインフラであることから、解体後に作られた土台の上に改めて電話ボックスを据え置いたものと思われます。
こちらも同じくホーム跡付近に石碑が設置され、当時を偲ぶ為の目印となっています。
くりはら田園鉄道の中でも最も大規模な駅舎を持っていたのが、旧栗駒町の中心駅である栗駒駅でした。総2階建てで宮交栗原バス(現ミヤコーバス)の本社営業所が入居しておりくりでん廃止後もバスの拠点となっていました。
やはり電話ボックスは今でも存在しますが、設置場所は写真左手の案内看板の脇に移設されているようです。
現在も保存されている若柳駅舎と同じ図面を用いて造られたという沢辺駅は、くりでん廃止後に解体されてしまったものの部材を若柳駅の姿を復元する際に用いることが出来たそうです。
こちらの電話ボックスは当時と全く同じ場所で今も現役で稼働中のため、駅舎の入口があった場所を今でも窺い知ることができる大切な目印になっています。
1997年に沢辺駅~東北新幹線くりこま高原駅間で運行を開始したシャトルバス。
外板や内装に木材をあしらったレトロ風のバスで、宮城県が購入し宮交栗原バス(現ミヤコーバス)が運行を行なっており、くりでん廃止まで貴重な連絡手段として活躍していました。
その後もミヤコーバスから移管されたグリーン観光バスでスクールバスなどとして稼働していたようですが、2018年に廃車されてしまい現存しないようです。
くりでん廃止まで残っていた栗原電鉄時代の遺構として知られていたのが、ズラリと並んだ架線柱達。
トロリ線は撤去されたものの、タブレット閉塞が用いられていたこともあり電車運転に必要な設備以外はそのまま使用されていました。